水(一杯目:腎臓は賢い)

動的平衡2 生命は自由になれるのか」より、腎臓(じんぞう)の賢さを知った。誤って「腎臓」を「賢臓」と書いても、マルをつけてもいいぐらいに賢い。

腎臓は、言わば、血液のろ過装置だ。まずは比較対象として水道のろ過装置を考える。水道のろ過装置(浄水器)は、基本的にフィルターや吸着剤でゴミを除去する。ゴミを拾っているようなものだ。従って、装置自体にゴミが蓄積してしまい、ろ過に限界が生じる。

他方、腎臓のろ過システムは、ゴミを拾うのではなく必要物を拾う仕組みだそうだ。どういうことか?

腎臓は一度、汚れた血液を全部捨ててしまうのだ。そののちに、細い管を通過するプロセスで必要なイオンや栄養分を選択的に再回収する。ここで再回収されなかったものは尿となって排泄される。このようなシステムを用いれば、システム内部にゴミ=エントロピーが蓄積する心配がない。なんとクレバーなことだろう!

腎臓には一日に約1700リットルもの血液が流れ込むそうだ。ここからまずおよそ180リットル(=ドラム缶一本分)が捨てられるのだが(原尿)、99パーセントが再回収されるとのこと。1パーセントにあたる2リットル程が尿となる。

著者の見解はこうだ。

腎臓はまさに大量の水の流れのうちにある。(生命がエントロピーの増大に抗して秩序を維持できるのは)流れる水が身体の内部に発生するエントロピー=乱雑さを常に対外に排出してくれているからだ。それゆえに、私たちが健康でいるためには、この流れを絶やさないこと、すなわち水をたくさん摂取することが何にもまして重要となる。

肉的ないのちと水の流れの関係、実に興味深い。

イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。 (ヨハネの福音書7章37-39節)

霊的ないのちは、生ける水の流れ(御霊)と関係している。肉的ないのちにも霊的ないのちにも神さまの奥義が秘められている。




 
レシピ集:『ごちそうさまが、ききたくて。』